10月16日 源氏物語 澪標

<原文>
 下りゐなむの御心づかひ近くなりぬるにも、 尚侍、心細げに世を思ひ嘆きたまへる、いとあはれにおぼされけり。「大臣亡せたまひ、大宮もたのもしげなくのみあついたまへるに、わが世残り少なき心地するになむ、いといとほしう、名残なきさまにてとまりたまはむとすらむ。昔より、人には思ひおとしたまへれど、みづからの心ざしのまたなきならひに、ただ御ことのみなむ、あはれにおぼえける。立ちまさる人、また御本意ありて見たまふとも、おろかならぬ心ざしはしも、なずらはざらむと思ふさへこそ、心苦しけれ」とて、うち泣きたまふ。女君、顔はいとあかくにほひて、こぼるばかりの愛敬にて、涙もこぼれぬるを、 よろづの罪忘れて、あはれにらうたしと御覧ぜらる。「などか、御子をだに持たまへるまじき。くちをしうもあるかな。契り深き人のためには、今見出でたまひてむと思ふもくちをしや。限りあれば、ただ人にてぞ見たまはむかし」など、行く末のことをさへのたまはするに、 いとはづかしうも悲しうもおぼえたまふ。御容貌など、なまめかしうきよらにて、限りなき御心ざしの年月に添ふやうにもてなさせたまふに、めでたき人なれど、さしも思ひたまへらざりしけしき、心ばへなど、もの思ひ知られたまふままに、などて、わが心の若くいはけなきにまかせて、さる騷ぎをさへ引き出でて、わが名をばさらにもいはず、人の御ためさへ、などおぼし出づるに、いと憂き御身なり。

<現代語訳>
 (朱雀帝は)ご退位なさろうとのご決心が近づくにつけても、尚侍が、頼りなさげに身の上を嘆きなさるのを、大変不憫にお思いなさった。「大臣はお亡くなりになり、大宮も頼りなくご病気も篤くいらっしゃるのに、私の命も残り少ない心地がし、大変気の毒に、これまでとは打って変わった境遇でこの世にとどまりなさるのでしょう。昔から、かの人より軽くみていらっしゃったけれど、私の愛情はこの上なく深いものだと思ってきたならいで、ただあなたのことだけが、いとしく思われます。私よりもすぐれた方と、またあなたのお望み通り契りを結ぼうとも、並々ならぬ愛情だけは、及ぶものはないだろうと思うことさえ、つらく切ないのです」と、お泣きになる。女君の顔は紅く染まり、溢れんばかりのかわいらしさで、涙もこぼれるのを、(朱雀帝は)全ての罪を忘れ、しみじみと愛らしいとご覧になる。「なぜ、皇子だけでも生んでくださらなかったのか。残念なことだ。前世からの因縁の深い人のためには、きっとすぐに子を授かりなさると思うのも堪らない。身分は越えられないので、臣下としてお育てなさるのですね。」などと、行く末のことまでおっしゃるので、きまりが悪く、また悲しくお思いになる。(朱雀帝の)容貌は、優美で清らかで美しく、限りない愛情が年月とともに深まるように大切にされるので、(源氏は)素晴らしく立派な方だけれど、これほど深く愛してはくださらなかった様子や、お気持ちなど、物事が分かるようになるにつれて、どうして、私の心の幼さにまかせて、あのような騒ぎまで引き起こし、私の名は言うに及ばず、あの方まで、などと思い出しなさるにつけても、たいへんつらい身の上である。

<語彙>
下りゐる…(地位を)退く、退位する

<注釈>
尚侍(ないしのかみ)…朧月夜
大臣…朧月夜の父である太政大臣(もと右大臣)
大宮…弘徽殿太后
名残なきさま…後見のいない境遇
人…源氏
女君…朧月夜
契り深き人…源氏

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10月18日 源氏物語 澪標

<原文>
 さやかに見えたまひし夢の後は、院の帝の御ことを心にかけきこえたまひて、いかで、かの沈みたまふらむ罪救ひたてまつることをせむと、おぼし嘆きけるを、かく帰りたまひては、その御いそぎしたまふ。神無月に御八講したまふ。世の人なびきつかうまつること、昔のやうなり。
 大后、なほ御なやみ重くおはしますうちにも、つひにこの人をえ消たずなりなむことと心病みおぼしけれど、帝は、院の御遺言を思ひきこえたまふ。ものの報いありぬべく思しけるを、なほし立てたまひて、御ここち涼しくなむおぼしける。時々おこりなやませたまひし御目もさはやぎたまひぬれど、おほかた世にえ長くあるまじう、心細きこととのみ、久しからぬことをおぼしつつ、常に召しありて、源氏の君は参りたまふ。世の中のことなども、隔てなくのたまはせなどしつつ、御本意のやうなれば、おほかたの世の人も、あいなくうれしきことによろこびきこえける。


<現代語訳>
 (故桐壺院が)はっきりと現れなさった夢の後は、故桐壺院のことを心にかけ申し上げなさって、どうにかして、あの地獄に沈んでいらっしゃるという罪を救い申し上げようと、切に願っていらっしゃったのを、このように帰京なさっては、そのご準備をなさる。神無月に法華八講をなさる。世間の人が心を寄せ申し上げること、昔のようである。
 大后は、いまだご病気が重くいらっしゃる間にも、ついにこの人を押さえつけられずに終わってしまうことだとつらく思っていらっしゃるけれど、帝は、故桐壺院の遺言を思い申し上げなさる。きっと報いがあるだろうと思っていらっしゃったが、(源氏を)もとの地位にお戻しなさって、お気持ちも清々しくお思いになった。時々病気にお苦しみになった目も良くなられたけれど、おおよそ長生きできそうになく、不安なことと、長からぬお命のことをお思いになりながらも、常にお召しがあって、源氏は参内なさる。政治のことなども、隔てなく仰せになったりしては、本来のお望みのようなので、たいていの世間の人も、わけもなく嬉しいことと喜び申し上げた。

<語彙>
さやか…はっきりしている、明瞭である
見ゆ…自然と情景が視界に入ってくる、現れる
しづ(沈)む…罪・地獄などに落ち込む
嘆く…悲しむ、切に願う
八講…法華八講、法華経八巻を講ずる法会
なび(靡)く…心を寄せる
おほきさき(大后)…天皇の皇后、先帝の皇后
消つ…消す、除く、押さえつける、圧倒する
心病む…心を痛める、つらく思う
なほ(直)した(立)つ…過ちを改める、もとの正しい状態に直す
涼し…澄んで清い、心がさわやかである、清々しい
さは(爽)やぐ…気分、病気が良くなる
おほかた(大方)…だいたい、おおよそ、(下に打消しの語を伴い)全然、少しも
心細し…頼りなく心配・不安である
世の中…治世、政治
のたまはす…おおせになる、おっしゃる
本意…本来の意思、望み
あいなく…むやみやたらに、わけもなく

<注釈>
さやかに見えたまひし夢…故桐壺院が源氏の夢枕に立つ話は「明石」の巻を参照
かの沈みたまふらむ罪…桐壺帝は醍醐天皇を思わせる記述がなされているが、醍醐天皇には生前に犯した罪で地獄に落ちたという伝説があるという
おほきさき(大后)…弘徽殿大后
この人…源氏
帝…朱雀帝
院…故桐壺院
院の御遺言…桐壺院が朱雀帝に源氏を重んじるよう遺言する話は「賢木」の巻を参照
ものの報い…源氏を失脚させた報い

澪標
源氏物語第14巻の巻名。光源氏28歳から29歳。冷泉帝の即位、源氏の内大臣昇進、明石の上の女児出産などを描く〔大辞泉〕

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